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育児

2017年2月13日 (月)

長男が高校に合格しました。

僕に似て勉強が大嫌いな長男が、高校に合格しました。本人は大変な読書家で、ちゃんと勉強すれば学校の成績も向上するはずなんですが、何しろ僕に似て勉強が嫌いなのです。

親として、ましてや大学生のときに個別指導塾講師のアルバイトで「伝説の講師」と言われた僕としては、1回だけ頼まれて近所の子に夏休みだけ家庭教師をして、その子の成績劇的UPの実績もある僕としては、わが子にもその技術を駆使したかったのですが、いろいろな理由で難しかった。

勉強をみてあげられない親として、塾代を払う以外にできることは、進路指導ぐらいです。高校受験でこんだけ苦労するのだから、大学受験で失敗するのは目に見えており、本人にその苦労をさせても将来への糧になりはしないと判断し、高校受験を最後に大学卒業まで保証されるところに行ってもらうことにしました。要するに大学附属の高校です。私立でも、大阪府と国の補助があるので、以前に比べれば経済的なハードルは下がりました。相変わらず公立よりはお金がかかりますが。

大学に内部進学できたとしても、その大学がイマイチだったら経歴を汚すだけなので、僕のこれまでの経験や、現在の就職実績や卒業生の人柄や傾向も考慮し、本人の「理系志向」も踏まえて決めました。学校見学も可能な限り行なって雰囲気などを確認しました。本人も、やさしく親切にしてもらえる先輩が行っている学校ということで「そこがいい」ということになり、「志望校」はすんなり決まりました。
よそはよくわかりませんというか、少なくとも福岡県はそうじゃなかったですが、大阪府では「高校浪人」を出さないため他数点の理由により、中学校の先生に「受験してよし」と言ってもらえれば、ほぼ受験校に合格します。模試などで「合格圏」であっても、中学校の先生に「ダメ」と言われて受験を強行して、案の定失敗した人をたくさん知っています。

ので中学校の先生に「受験していいよ」と言われれば、9割合格したようなもの。とはいえ、合格発表まではドキドキしました。受験の当日、朝からNintenndo DSするような子には、神様がバチを当てるんじゃないかと。
僕は受験人口戦後最大の世代を経験し、本当にイヤだったけれども、そこを何とか勝ち抜けたことは糧になっていると思います。その経験をさせてあげられず、もしかしたら長男にとって人生で唯一の受験になるかもしれないことになることの是非で少し悩みましたが、もし自分がいま、長男の立場だったら、こうするだろうと思って「これでいい」と思うことにしました。

いまどきプールもあるし、雰囲気がよい学校なので、途中リタイヤすることはないと思いますが、通学路に繁華街があるから悪の道に染まらないかにちょっと不安を抱きつつ、頑張って学費を稼ごう(高校はいいけど、大学の学費はまともにかかってきます)と思うのでした。

2014年4月 9日 (水)

長男の中学校入学式

長男の中学校への入学式に行きました。小学校の入学式は一大イベントですが、中学校ともなると単なる通過点の儀式の様相が濃いようなイメージを持っておりましたが、ビデオ撮影しているお父さんもいないわけではなく、たぶんお嬢さんの結婚式で使う素材集めなんでしょうね。

例によって国歌斉唱(歌声入り録音=参加者は誰も歌っていない)・校歌斉唱(同)のあと、担任の先生が新入生の名前を読み上げて、校長・PTA会長がしゃべって、在校生・新入生代表がしゃべり、それで終了。予定表はそこまでなんですが、新入生保護者代表がそのあと何かしゃべり、生活指導担当教員が簡潔に2分で済む内容を10分ほど冗長にしゃべり(どうも保護者が各教室に行くまでの時間稼ぎらしい)、やっと開放されました。

僕は中学1年のときは11クラス中の8組で、担任は教師暦2年目の女性の国語教員でしたが、長男は6クラス中の4組で、担任は若い女性の国語教員でした。なんとなく似てますね。

小学校は中級住宅地と古くからの地元の人々の住む地域が校区でしたが、中学校はさらに小金持ち(新しい小規模事業主)の住む新興住宅地が校区に加わりました。小学校の保護者層はおとなしめというか上品な人(会社員・古い商店主)が多かったのですが、中学校ではかなり派手な人もいて、ああ人(の職業や暮らし向き)は見た目ではっきりわかりやすいなあと思いました。と同時に、先生も大変だろうなあと気の毒になりました。子供は普通そうな人がそろっていて、大阪1人口が少ない市の山手の創立70年近い学校だから、そんな変わった人がいるわけはないのですが、少し安心しました。僕たちのころは、かなり荒んだ家庭(博打打のご家庭など)のお子さんたち(あまり出席はしませんでしたが)もいらっしゃいましたから。

2014年4月 7日 (月)

セルフサービス

僕はケチで待つのが嫌いな人なので、食事はセルフサービスのお店(讃岐うどんやフードコート)に行くことが多く、ガソリンはセルフスタンドに行きます。子供も外食するときは自然とそういう店に行くことになるため、鳥取旅行のときに入ったうどん店で、食べ終わった次男に「これはどこに返しに行くの?」と聞かれました。

「いいお店にめったに連れて行ってあげなくてごめんね」と謝っておきましたが、家でも食後は自分たちで片付けるルールになっているので、どうも食後の食器が目の前にあると気になるみたいです。

2014年3月20日 (木)

長男の小学校卒業式。

長男の小学校の卒業式に行きました。小学校の卒業式は、自分の卒業式以来です。卒業式じたいも、自分の大学の卒業式以来。

僕が小学校を卒業したのは1985年の3月。大阪府羽曳野市立の小学校。30年経っているだけでなく、南大阪と北大阪以上にどれだけ差があるかに興味がありました。

地域差といえば、たとえばたこ焼きの値段をいつも僕は引き合いに出しますが、たこせんという、ただでさえ南河内よりぼったくりな北河内のたこ焼き店をさらに儲けさせようというメニューがごく一般的であることに、いつも感心しています。えびせんにソースを塗って天かす(揚げ玉)をかけて「はい、200円」みたいなぼったくりメニュー。良心的な店は、たこ焼きを載せてくれますが、1個ぐらい載せてもらっても200円はぼったくりでしょう。

それはそうとして、地価が僕の育った地域の倍(2014年3月現在)という地域なので、お住まいの皆さんも小金持ちとはいえ、卒業式(の飾りつけ)は地味でした。南河内は、根が農耕民で、ハレとケというか、祝儀不祝儀ごとはパリッとみんなで飾り立てます。北河内は、京阪海道沿いの商人の町というか、都会流なんでしょう。

あと、我々保護者世代は、1980年代に小学生だったわけで、僕は少なくとも「君が代」という日本国歌(になったのも僕が大学在学中)を授業で歌ったことはないし、多くの同世代はNHKの放送終了までTVをつけっぱなしにするのでなければ、耳にするのはオリンピックぐらい? だと思われる状況なので、式次第に「国歌斉唱」と書いてあっても、歌えません。曲と歌詞は一般教養として知っていますが、いまだに両者の節合わせが一致しません。親がそういう世代だということを、忘れて「卒業式では国歌を歌う」と勝手に決めてもらっても困ります。子の前で親に恥をかかせてどうするのですか。「授業で君が代を歌う機会がなかった親御さんへ」とかなんとか、親だけ集めて事前練習させなきゃ。本当にやる気ならね。

2014年2月16日 (日)

滝澤信彦先生

大学のゼミの先生が滝澤先生です。憲法のゼミでしたが、先生は本来政治学の先生で、研究テーマは「宗教と民主主義国家」でした。僕が在学中は「宗教的良心的兵役拒否の法理」みたいなことに関心をお持ちだったと思います。

「滝澤先生の講義を受講して、単位がもらえるのは3割」という、他にもっと厳しい先生がいたにせよ、比較的厳しい先生でした。「B(良)がもらえたらすごい」と言われておりましたが、僕は1年生のときに(憲法機構論=比較的簡単=ですが)「C(可)」をいただき、ゼミ生になってから憲法人権論でB(ゼミ生だから恥ずかしいのですが)をいただきました。この試験のあと「授業で見なかったんだけど」と先生に言われ、「恥ずかしいので授業には出ませんでした」と答えたのを覚えています。3年と4年の間の春休みのゼミ旅行のとき、めったに褒めない先生に「すごくいい答案だったよ。Aにしようか迷ったんだけど」と言われ、穴があったら入りたくなりました。

卒業後、他の件もあって先生とは疎遠でしたが、2009年から東亜大学の客員教授でご活躍中だと知り、安心しております。現在の研究テーマは「人権保障および環境法に関する研究」だそうです。僕の卒業研究テーマが「環境権」だったので、またなんとなく恥ずかしくなりました。

2014年2月15日 (土)

上田信夫先生

高校3年のときの担任が上田先生です。中学のときもそうでしたが、僕は数学が苦手です。その数学の先生でした。中学のときは何とか奮起してクリアできましたが、高校はぜんぜんダメ。なのに理系クラスにいたので、本当に数学の成績はボロボロでした。テストで0点だったこともあります。

先生は「入学試験のときの点数はよかった(合格者の平均点が40点台なのに、僕は70点近かったそうです)んやから、がんばれ」と励ましてくださいましたが、結局3学期になって「入試は文系で受ける」と、浪人して文転してしまいました。ちなみに文転したらしたで、英語ができなくて苦労するのですが。

3年上田学級は、理系277人中276番(僕)と277番がいる落ちこぼれクラスでしたが、卒業式のとき、当時37歳だった先生に「君らとは、君らが37歳になったときに話し合いたいと思う」と仰るぐらい、大変な苦労をおかけしてしまいました。この「37歳のときに」の件は実現し、20年ぶりに20数名が先生を囲ぶ会を催すことができました。

我々は「先生に謝りたい」と思って参加したのですが、先生は「君らはおとなしかった記憶がある」と真逆の印象を持っておられたそうで、一同胸をなでおろしました。案外そういうものかもしれません。

2014年2月14日 (金)

寺嶋祥朗先生

高校1~2年の担任が寺嶋先生です。美術科ご担当で、家が近所でした。ドイツに留学していたからビールが大好きだそうで、見事にビール腹でした。2年間担任していただきましたが、思い出に残るエピソードは、先生のプライベートなことなのでここには書けません。

美術の先生ということで、実際には芸術家なので、やや個性的というか変わった人でしたが、クラブ活動で遅くなった僕を家まで自家用車で送ってくださったことにあり、普通に親切な人だと僕は思います。でも、数少ない生徒に人気がない先生でもありました。

名門高校で教員にOBが多い学校なんですが、先生もOBでした。長く勤める人が多いのに、比較的早期に退職されたので、その後どうされているのかわかりません。

2014年2月13日 (木)

菅原実先生

中学3年の担任は菅原先生でした。科学の先生で、後に判明しますが、父の弟(つまり叔父)が中学生3年生のときにも叔父の担任だったそうです。ボロボロの1970年型ぐらいのホンダライフで通勤しておられましたが、後にボロボロの日産サニー(の中古車)に変わりました。まあ動けばいいということなのでしょう。

菅原先生とは、特別なエピソードはございません。僕はとにかくまじめに受験勉強していたし、成績も中の上ぐらいだったので、優秀だった叔父(先生は叔父を覚えていて、「叔父さんは頑張り屋さんだったねえ」と仰っておりました)にはかなわないにせよ、普通の生徒だったと思います。僕としては、あれほど苦手だった数学を克服したのが中学3年生最大の思い出で、つまり先生はあまり関係ありません。

先生にはお世話になったのは間違いないのでしょうが、でも過分で身に余る調査書を書いていただいたというほか、なんかお世話になったかな? というのが正直なところです。

2014年2月11日 (火)

堤ひさ子先生(他5年生のころ)

「ひさ」も漢字なんですが、思い出せません。本来なら5~6年の担任になるはずでしたが、家庭の事情で5年生の5月からはお休みされました。2ヶ月程度で復帰の予定だと聞いていましたが、2度とお目にかかることはありませんでした。1ヶ月少々しかお世話になっていないから、先生について特別な記憶はございません。

八尾の亀井の青果店がご実家の先生(名前は失念しました)が堤先生の後を継いで2ヶ月ほど臨時で来られ、このころはクラスの団結は維持されていました。まだ26歳とお若く、かわいい容姿と「みゆき」というお名前(当時そういう名前のコミックが、進んだ児童の間で流行っていた)もあって、それなりに人気もありました。先生とは短いお付き合いでしたが、双方悲しいお別れをしたことを覚えています。でも名前は失念しました。

その次に、中学校の科学の先生というのが小学校教員資格があるとかで来られ、この人も2ヶ月ほどのヘルプでしたが、やっぱり普段中学校で科学だけ教えている人には小学校のクラス運営は難しかったようで、少々クラスの雰囲気が変になってきました。授業がうまく成り立たない感じです。

そこで化学の先生は事実上逃げるように去り、教頭先生が担任になりました。教頭先生に恐れをなして最初はおとなしく様子見していたのですが、管理職が長かったのがよくないのか、科学の先生がめちゃくちゃにした雰囲気のせいなのか、すぐにまた元の木阿弥。授業で「先生、それは間違ってますよ」と児童に指摘されるような簡単なミスを連発したり、偏食が激しくて一切パンを食べることができず、それを紙に包んで机に隠すのですが、それがたまってカビだらけになって異臭を放ったり、レーズンパンのときにレーズンだけ穿って食べるパフォーマンスをしたり、やっぱり本人にも問題があったような気がします。

そういう最悪の状態に陥ったため、6年生の担任(2年毎の持ち上がり制でクラス替えも2年毎のため)はちゃんとしてほしいという保護者の意見を受け、3~4年生の担任をしていただいた寺内先生が6年生の担任になりました。いわば寺内先生がババを引いたという感じです。児童の人気者寺内先生の力は効果てきめんで、6年寺内学級は間違いなく落ちつき、僕たちは最高の小学校最後1年を過ごすことができました。

なお寺内先生は、「教頭先生は自分のお仕事を放り出して君らの授業をして、毎日深夜まで放り出した自分の仕事をしてたんやで」とことあるごとに僕たちに話し、僕たちは深く反省したことを念のため申し添えさせていただきます。

2014年2月10日 (月)

寺内和夫先生

小学校3~4年生と6年生の担任が寺内先生でした。当時児童に人気があった先生の1人です。僕が3年生のとき36歳と若く、昭和20年3月13日の大阪大空襲の前日に生まれた人なんですが、戦争体験が事実上ない戦後世代の先生でした。僕の両親より1歳年上です。

戦中派のスパルタ教育を1~2年で受け、それなりにある程度の矯正が進んでいた僕ですが、戦後派とはいえ戦中派の教育を受けた寺内先生も、根本的には厳しかったです。優しく諭しているうちに改善しなければ、ちょっと怖かったです。でも基本的には楽しく優しく親切な先生でした。

児童にはおおむね人気の先生でしたが、保護者の評判は賛否両論で、いま大人の視点で思い返してみると、やや贔屓というかそういうのがあったように思います。気になる児童には精力を注入しますが、うるさい保護者や家庭の子は放置したり辛くあたったりするような。あるいは男児に優しく女児に冷たいような。

先生は休みの日はプライベートで地域の野球チームの活動に参加したり、毎朝始業前に全児童・教員でマラソンする日課(TVの取材が来たこともあります)を開始したりするような体育会系の人でしたが、表現手段として詩や絵画を重視しておられました。僕がダラダラとしまりのない長作文(400字詰め100枚とか)を書くのを、放課後までじっと待ってくださったことが思い出されます。あるいは5年生のときに学級崩壊しているころ、僕が授業中に藤棚の上で寝ているのを見つけたのも寺内先生です。

僕が卒業する直前に文部省(当時)の研修で海外研修に行ったり、僕たちのクラスの授業風景がビデオ撮影されて全国に配布されたりするような先生で、僕が卒業してまもなく教育委員会入りされましたが、そのときに移動中の交通事故で亡くなりました。

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